晴れた日は畑を耕して

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【映画】天気の子

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0.はじめに

 

こんにちは。天気の子を観てきました。

吐き出したい感情がいつまでたっても消えないのでとりとめなく書いていきます。

監督も色んな意見をぶつけて欲しいって言っていますしね。

 

※ネタバレしかないです。未視聴の方は観てからお願いします。

 

また、作品の評価に他の作品を出すのは良くないというような風潮がありますが、人は無意識にでも比較を行なっているはずであり、出てくる作品が原風景に近ければ近いほど作品が身に染みると考えていますので出していきます。

 

 

1.00年代エロゲという集団幻覚、そこから見えるセカイ系としての本作

 00年代のエロゲ、泣きゲの映画化と言われることの多い本作、自分も同じような感想を抱きました。選択肢は見えていましたし、個別ルートの記憶もしっくり来ます。

 他の人の様々な感想からも、あるあるネタのような意見が散見され、共通認識のようになっているのかとも考えられます。

 

 ここで一番大事なことは、どこかで見たことのあるような要素が多い、という部分です。

 

 前評判からいわゆるセカイ系と言われていた本作ですが、余りに刺さる部分が多いように見受けられます。

 片や【Air】、片や【エウレカ】、片や【消失】など、各々の原体験とも言えるような作品が多く挙げられていました。僕は【沙耶の唄】を感じていました。

 

 もちろんそれらを思い返す要素は多々ありますが、そもそもセカイ系というだけで、こんなに別々の作品が想起されるものでしょうか?

 僕は、この思考の結びつきは、天気の子の主題とするテーマが、セカイ系と呼ばれるものの本質に限りなく近かったからだと考えています。

 

 そもそもセカイ系は今までこれと言って明確なジャンル区分ではなく、世界と自分達の対比、自分たちの選択が世界に大きな影響を及ぼすものというくらいの言葉でした。

 

 その上で、この作品を振り返ると真っ当にセカイ系なのだと理解することができます。しかし、この作品はセカイ系の先を行くという面で新海誠なりの回答が描かれ、つまる所そこが最大の論点であり、描きたかったものなのだと感じます。

 

2.大人と子供の大きな対比。その中でどちらにもなれないもう一人の主人公

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こんなに可愛い姪がいて、バー付きの事務所に二人で住んでて細々とライターやってるって考えるとオタクの理想みたいですね。

 この作品は生き辛い今の日本で少年たちはどう生きていくかという部分に焦点が当たっています。その対比として大人達が描かれていますが、誤解を恐れずに言うとこの大人達の描写は基本的に子供に理解を示しません。

 

 例として、圭介の義母に当たる人物の、「最近の子は可哀想」というセリフや、刑事達の「最近の子はすぐネットにのせる」と言ったセリフ。圭介から原稿を送られているのに雑な態度であしらう出版社などがそれに当りますね。

 

 また、圭介の義母はタバコをやめた圭介をイメージで語り、結論ありきで自分が正しいという側面で物事を進めるという描写もあります。

 

 唯一例外である圭介は自分の人生に負い目があり、正しい道にいないことを自覚しているので大人には頭が上がらず納得して聞き入れる存在、ひいては彼らと完全に同じ目線ではない、大人になりきれない人物として描かれています。

 

「歳を取ると大切なものの順番が入れ替えられなくなる」「人柱で世界が救われるなら誰だって望む」と、大人の価値観に契合することは出来ますが、帆高の叫びによって自分の価値観で行動する、ある意味最も成長した人物として描かれています。

 

 そのため、エピローグで登場する圭介は、立派な大人として登場します。

 子供が好き勝手やっても気にする事はない。そもそも人は全員無力であり、思い上がるのは甚だしいということを帆高を励ますために伝えてきます。

 

 圭介は娘と良好な関係を築きながら社員を数名抱えるなど、3年前より前進しています。これは身を潜めて謹慎が解けるのを待つ、止まっていたままの帆高との対比になっており、大人と子供の対比としてより帆高が理解されないという描写になっています。

 

3.帆高という人間の異常性

  設定があればいいわけではないですが、拳銃が盗まれた事件は拳銃を使わせるためだけに、凪くんは兄貴分のキャラを出さなければいけないが、帆高より年上にはできないためかなりのファンタジーな存在に、警察は拳銃の出所もわかっているのに怒り過ぎ。(そもそも家出で警察はあんな風に怒らない)等々……。

 

 本作はご都合的な状況が揃っています。そしてここでいうご都合は決して悪い意味ではなく、必要な要素を揃えるための最短ルートを辿っているわけです。

 

 陽菜と世界で陽菜を選ぶためには世界がおかしいことを、狂っているということを叫ばないといけない。もう自分のために願っていいと教えなくてはいけない。

 

 クライマックスではそう叫びながら陽菜に会いに行きますが、振り返ると帆高は終始狂人です。

 

 彼は最序盤から身分証もなしに家出をしていることから分かる通りかなり突発的な行動原理を持っています。島は行き止まりなので仕方ないですね。

 

 冷たい大人の目線で言えば世の中を舐めている子供であり、それは作中序盤で痛いほど描写されます。僕も世の中を舐めている節があるので、ああいうシーンはなるべくやめてほしいですが、これも仕方がないことなのでしょう。

 

 そんな扱いを受ける帆高は、事あるごとに「東京ってこえー」と口にします。このセリフには違和感を感じます。帆高からすると、子供は守られるべきであるという認識なのでしょうが、幾ら何でも他人のせいにしすぎです。しかし、この話の作りはもちろん伏線、この自己意識の低さが世界を壊す決断をするのが今回の最も大きな成長です。ハッピー。

 

 嘘です。

 

 そもそも帆高は序盤から拳銃を脅しに使い、実弾が入っていると知らないとはいえ人に向けて発砲します。

 

 それは自分の恩人である圭介に対しても変わりません。むしろ実弾が入っているのを知っていながら構えるあたり人間的な恐ろしさは上がっています。

 

 彼にとって大切なのは自分の世界であり、そこにいるのは陽菜であるため、それと比べたら他人なんてどうでもいいと描かれています。陽菜のためならなんでもする。「これ以上僕たちに何も出さず、何も引かないでください」というメッセージから分かる通り陽菜と凪と生きていけてばそれでいいと、青臭く真っ直ぐに描かれます。

 

4.セカイ系の終わり

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歳下の姉であり母。夏美とキャラ配分が別れていたからか、嫌悪感が少なく最強ヒロインになっています。

 帆高の話をするためには、当然ラストシーンと陽菜の話は欠かせません。

 

 セカイ系の多くは世界と彼女で世界を選ぶことの方が多く、もしくは両方を救う話もが主流です。 

 美しい別れや犠牲が焦点に当てられているものが主流で、世界を犠牲にする恋は基本的に鬼作扱いされます。

 

 今作はそれまでの過程でセカイ系というものが改めてどういうものかを描写し、最後に世界と陽菜で陽菜を選ぶという、新海誠特有のミクロな社会関係を前面に出すというものでした。

 

 同じくセカイ系に分類される【雲のむこう、約束の場】では両方を救うが、主人公は最大には報われない、という終わり方でしたが、今回はその結末をも蹴り飛ばして、更に先に向かいます。

 

 この結末こそが天気の子の主題です。

 

 そしてここで浮き彫りになるのが、帆高の持つ異常性と社会とのズレです。

 上で陽菜のためにと書いていましたが、帆高の行動原理は「陽菜を助けるために動く」ではないです。

 

 もちろん陽菜のことが好きであり、陽菜が消えるくらいなら世界を壊すことすら躊躇いがないですが、彼はそもそも陽菜以上に陽菜と恋愛をする自分に酔っている節が見受けられます。

 

 凪に指摘され意識し始めるシーンや、女子の家に行くこと、告白をイベントとして捉えていることなどが挙げられます。エピローグなんかは女子生徒と向き合う気もなく、告白されるかもというイベントに心を躍らせていましたね。

 言ってしまえば恋に恋する少年なので、もちろん陽菜の気持ちも考えられていません。

 

 その証拠に、陽菜は晴れている世界を望んでいると劇中で何度も語られています。

  • 晴れた日にお母さんともう一度歩きたかったから強く祈った。
  • 晴れ女になって自分の役目を知った。
  • 誰かに必要とされるこの仕事が好きになり、それを教えてくれた帆高に感謝していた。

 その上で帆高と世界のために自分を犠牲にするというのが陽菜の行動原理でした。

 

 陽菜は終盤まで年上のお姉さんキャラとして描かれており、凪と構成する疑似家族のお母さんという立ち位置です。

 そのため非常に自己犠牲精神が強い人物であり、弟に不自由な生活をさせないようにする、社会性と責任感の塊でもあります。

 

 その結果、今回の事件にも責任を感じており、天気の巫女の力がなくなった(明言はないですが、お母さんの入院時には着けておらず、空から落ちてきてチョーカーが破損、最後のシーンでは外していたので、チョーカーが天気の巫女の力の暗喩という考察です)後も雨の中の東京で祈り続けていました。

 陽菜はやはり晴れを望んでいるし、今の世界の形は最善とは思っていないのです。

 その選択をした責任があるからこそ、こんな世界の形になったことを受け止め、届かない祈りを捧げています。

 

 中盤に陽菜のから発される「大丈夫」と、ラストの帆高の「大丈夫」が指しているものはまるで違うというすれ違い。

 僕が最も好きなのはこのラストシーンであり、帆高の独り善がりな行動でしかないすれ違いを生みながら、それでもお互いに大丈夫と励ます力強さに打ちひしがれました。

 

 誰にも理解されないどころか最愛の人とも決定的にズレている。それでもそんな二人は狂った世界で生きていくという作品。最高ですね。

 

 瀧くんも「東京なんていつなくなるかわかんない」って言ってたし、無くなったら無くなったで生きていくしかないんです。

 それなら、これからは自分のために祈っていいじゃないですか。

 

終わりに

 世界を犠牲にしても好きな人と共に明日も生きていくという非常に好みの作品でした。

 

 帆高の行動原理や思想に恐怖を感じるのは、僕が真っ直ぐな人間ではなくなってしまったことの表れだと考えると、「中途半端に大人になんぞなりとうなかった」というロリババアみたいな感想が浮かんでしまいます。

 正しさなんて誰が決めたのかわからないから、みんな自分の正しさのために生きるべきですね。

 

 今回はストーリー面の話ばかりしましたが、勿論映像面も音楽面もとても満足できました。

 

 それと、映画館でもざわついたのですが、【君の名は。】でもあった新海式スターシステムもありましたね。

 あんなに頑張って糸守のみんなを救った二人の生活も、東京の海に沈んでいる思うと笑えてきます。結局個人の努力には限界がありますね。

 

 パラレルワールドだから出来ることですし、【君の名は。】が大当たりしたからか雪ちゃん先生の時と比べて反応が良かったように見えました。 

 今後も行われそうなのでプレイボーイ街道まっしぐらの凪くんに会えるのが今から楽しみです。

 

 長々と書きましたが、まだ一回しか見ていないので見落としているところや考察にも穴があると思いますのでご了承を。

 

 感想や意見などお待ちしています。またブクマやお気に入りなどしていただけると励みになります。

*1:画像はすべて公式サイト様より引用しました